複十字シール運動とは・・・

複十字シール運動は、結核がヨーロッパ中に猛威を振るっていた20世紀初頭、一人のデンマーク人の知恵から始まりました。首都コペンハーゲンの郵便局員であるアイナール・ホルベルは、山積みした郵便物を見て「この郵便物に誰でも買える値段のシールを貼ってもらったら、その収益金で不幸な子供たちの結核療養所が作れるのではないか」と思いつき、この着想は国民的な支持を得て1904年に実現しました。日本では結核予防会が戦後昭和27年に発行を始めて現在に至っており、結核をはじめ胸の病気をなくすための世界共通の運動へと発展しました。

参考サイト  

複十字シール運動物語
1903年 デンマーク・・・
20世紀初頭、ヨーロッパでは結核が猛威をふるっていました。1903年、クリスマスを間近にしたある日、デンマークの首都コペンハーゲンの郵便局で働くアイナール・ホルベさんは、山のように積まれた郵便物を見てポンと掌をうちます。
「この郵便物に誰でも買える値段のシールを貼ってもらったら、その収益金で結核の子供たちの療養所が建てられるんじゃないか!」
このアイデアは国民的な支持を受け、翌年、世界初のクリスマスシールが発行されました。そして7年後、120床の小児結核療養所が完成したのです。
1907年 アメリカ・・・
デンマークから遅れること3年、このシール運動はアメリカで大きく花開くことになります。1907年、アメリカの赤十字で働いていたエミリー・ビッセルさんは、デンマークでのシール運動を知り深い感銘を受けます。さっそく、自らシールを印刷し、郵便局のロビーで1シート1ドルで募金を呼びかけました。これに地元有力紙が協力し、連日大々的な記事を掲載、最終的には目標の100倍に達する成果を収めました。
翌年のクリスマスからはアメリカ赤十字本社が、1919年からは各州の結核予防会がこの運動の担い手となり、アメリカ全土で繰り広げられるようになりました。
1925年 日本・・・
日本でこのシール運動がはじまったのは1925年、大正14年のことです。日本初の結核予防シールは自然療養社から発行されました。当時100枚つづり1シートで50銭、益金は合計394円63銭でした。その後、戦争で一時中断したものの、昭和25年に再開し、その後途切れることなく続いています。
結核予防会としてシールを発行するようになって50年あまり。これからも、皆様のご支援をお願い申し上げます。

一方、日本国朝鮮地方(今の朝鮮地方)では、朝鮮総督府(当時の日本政府)の要請により、

======以下、韓国のサイトより(一部、翻訳不可)==========

1932年12月カナダの宣教師であるショウドホール(Sherwood Hall)が初めてシ-ル運動を始めた。
南大門を元に切手がデザインされた。


彼は1932年(昭和7年)初めてクリスマス積む発行しながら発行動機を“第一韓国の人々に結核を正しく認識させて,二番目万人をハングギョルヘックウンドングに参加させること,すなわちシ-ル値打ちを包むようにして金持ちや貧しい人が皆買うようにして三番目は財政的裏付を要する結核退治事業の寄金を溜めるためだ”と言った。
1945年 日本敗戦後、韓国へと複十字シール運動が引き継がれる
以後1940年までクリスマス実は9回発行されたが,日帝時代と6.25戦争を経りながら発行が中止になってから1953年大韓結核協会の創立と一緒にまた発行し始めて今年で52回を迎えた. クリスマスシル募金は現在大統領を含めた各界各層あいさつが参加しているし,去る2003年度には65億433万2千ウォンを募金,今年も去る8日から糸売り値始まって結核で苦しんでいる隣りのために大事に使っている。

======以下、管理人の勝手な妄想==========
朝鮮総督府は日本国朝鮮地方のために当時大流行していた牛疫病の予防接種を受けさせたり、上記のように国際的な結核予防運動に参加したりしている。

当時(明治、大正時代)大流行した牛疫病の予防接種を朝鮮の人にも受けさせる朝鮮総督府
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併合前の李氏朝鮮(例えるなら今の金日成体制?)よりもずっと良いと思うのだが・・・・
(もちろん、他国が他国の権利を蹂躙するようなことは決して許されることではないが、そもそも韓国併合は全世界の承認の元、合法的に行われたものであって、当時の欧州などが行った植民地政策とは違う。)

これが今の韓国が唯一の国定教科書で教えている史上最悪の植民地支配とは到底思えない。

======参考として、併合前の李氏朝鮮を記した本の記述から==========
 李朝末期の韓国は、政治が乱れに乱れていた。宮廷は国民の大多数が生活苦に喘いでいるのをよそに、政争に明け暮れていた。役人や、両班はみな私欲にかられて、自らの栄達と蓄財のみを求めて、弱い民衆を摂取することだけしか考えなかった。そのために社会道徳が乱れて、精神も文化も経済も疲弊した。売官売職は普通のことだった。どこでも賄賂がまかりとおった。黄金の力と暴力が支配していた。 政治は不正行為の別名しかなかった。民衆への収奪が極限に達していた。
いつもハルサリ(その日暮らし)を強いられていた庶民は、こき使われるだけこき使われ、乱暴されるだけ乱暴されて、まったく希望をいだくことができない日々を送っていた。社会が停滞しきっていた。火賊や山賊と呼ばれる盗賊が横行していた。火賊は村を襲うときは放火して、その混乱の中で略奪したためにそう呼ばれた。日本人は徳川幕府末期の日本について大いに誇ることができようが、情けないことだが、韓国人としては李朝末期については何一つ誇ることができない。 
                   
「醜い韓国人」光文社 著者 朴泰赫

 朝鮮の両班は、まるで支配者か、暴君のごとくふるまっている。両班は、金がなくなると、使者を送って商人や農民を捕えさせる。その者が手際よく金を出せば釈放されるが、出さない場合は、両班の家に連行され投獄され、食物も与えられず、両班が要求する額を支払うまでムチ打たれる。両班の中で最も正直な者たちも、多かれ少なかれ、自発的な借用のの形で自分の窃盗行為を偽装するが、それに欺かれる者は誰もいない。なぜなら、両班たちが借用したものを返済したためしが、いまだかって、ないからである。彼らが農民から田畑や家を買うときは、ほとんどの場合支払いなしで済ませてしまう。しかも、この強盗行為を阻止する守令は一人もいない。」

マリ・ニコル・アントン主教

 「両班はキセルですら、自分で持つことをせず、徹底して何もしないのが習わしであった。」
 「両班はいつも借金で首が回らず、何かちょっとした官職の一つでも回ってこないかと首を長くしており、それを得るためにあらゆる卑劣な手段な行為をつくし、それでもなお、望みがかなえられない場合には飢えて死んでしまう。」

イザペラ・ルーシー


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